妙法寺の由来・縁起
遥か昔、当地に住し、元平家方の侍で医術巧みにし、代々それを生業にしていた人辺氏という有力者がおりました。
ある時、その人辺氏の妻が出産の途中に死亡するということが起こりました。ところが、そんな混乱と悲しみの中、その母体から男の子が生まれたのです。父親は、この奇跡に感激し、人の為になる子にしたい…と願いました。
その後、その子供は日蓮宗の祖「日蓮聖人」の直接の弟子(六老僧)の1人「日昭上人」とご縁をいただき、その弟子「日經」となりました。後に師の許しを得て、元亨3年(1323年)、この地に日昭上人を御開祖と仰ぎ、日經が「妙法寺」を営むに至りました。
当寺・妙法寺は、歴代、当地を治めていた田中藩との繋がりも深く、檀家のほとんどが田中藩士だった為、武家寺(武士寺)と呼ばれていました。お城にも駕籠で登城することが許されており、戦後まで当時の駕籠が残っていました。また、境内には 戦前まで鐘楼が残っていて、当時の妙法寺の境内は かなり広い境内であったと言われています。
そして、当寺の歴代の住職の中には 霊顕あらたかな方がおられ、その経力などの功績により皇室関係の寺院より、十六弁の菊の御紋の使用が許され、現在も許可状が残っています。また、当寺の山門は、1836年、当時の田中城主・本多豊前守正寛の武運長久と檀信徒の安泰を願い建てられました。途中、一度の改修を経て、現在も当寺の山門として残っております。
本堂内に鎮座する「七面大明神像」は、身延の七面山の大明神像と同じ原木で、同じ作者が作った物と伝えられています。同じく、本堂内にある「日蓮聖人の御一代記」は、昭和5年の宗祖650年忌遠に描かれた物で、写しではなく一枚一枚が当寺の絵師により描かれためずらしい物です。